面白い。痛みを感じないとどうなるか。感じずに育つとどうなるかというはなし。痛みが安全感に繋がるとというはなし。プラセボのはなし。痛みと国民性のはなし。ターミナルケアの話。などなど。著者は精神科医。
怪我をして痛いとかけっこう物理的な話のような気がするし実際そうだと思っていたが意外にも情緒的、社会的に感じる痛みというのが多いことに驚かされた。良く考えたらプラセボが有効だということは乱暴に言うと気の持ちようで痛みが軽減するということで、とすると気の持ちようで痛みが増幅するということもあるのだろう。 ならば痛みの基準値はどの辺にあるのだろうか。基準痛みたいなのはまあ設けられやしないだろうけど。痛覚に近いとされる「辛さ」には一応単位がある。このさいhanageでいいから統計とれないだろうか。例えば手術の時に麻酔をすると痛みを感じないけども実際は水面下で感じまくってるらしいので、そのときの神経伝達物質の量を測るとか。無茶ですな。わはは。
日本語は病気であることを表すのにbe動詞を使い、英語はhaveを使う。という指摘は面白いと思った。このへんをやってる言語学者とかいそうな気がする。他の言語だとどうなんだろ。(2006-08-24)
なにやら古い本ばっかりになってきた。もとは1979年。金のなかった高校の頃に(今だって無いのだけど)古本屋とかバザーで買って来たりした本を読み返したりしてるからかしら。傍線が一杯引いてあって、前の持ち主は真面目に勉強してたのだろう。そういう本がけっこうあります。ぼくは本に書込みをする習慣がないので(既に引いてある本を手に入れてくることが多いせいもあるが)人が引いた線はなかなか面白いです。要点がわかりやすくなってるのもあるし、意図がわかりづらいものもある。
内容はもちろん古いのだけどもリアルタイムの動向を知ってるわけじゃないのでどこがどう古いとか判断つきかねるね。研究史を概観するにはいいかも。個人的にはこの周辺分野はがっつりまとめて社会学でいいのにとは思う。
多分完全に相対化して見ることはひとである身には荷が勝ちすぎるのだろう。でもその姿勢を標榜することはけっして無意味ではなくて。それは常に自分の視点を問い直すことに通じるから。少なくともそう期待されているのが相対主義なのだろうね。あんまりメタなところをつきつめていくと健康を害しそうなので深入りは避けたいところ。(2006-07-20)
世界中のさまざまな場所・境遇の人とともにもの食った記録。重い話も多い。(というか重い話ばかりなのだが)戦争中だったり貧困スパイラルのまっただなかだったり。でもなぜか暗くなりきらないのはものを食ってるからだろうか。やはり食うというのは生きようという活力のなにがしかの証であろうから。
藤子F不二雄の短編なんかつまみ食いすると人口爆発で食糧不足ネタがよくでてくる。70−80年代の作品群。この本の初出が90年代の初めころ。未だ人口は増え続け、穀物生産量も頭打ちになっている今、餓死する未来はそんなにリアリティのない話ではない。ただ正直石油が枯渇するよという話と同程度にリアリティのない話ではあるのだよね。情けないことに。まちがいなく今まさに食えなくて死んでるおびただしい人がいるにもかかわらず。別に後ろめたさを感じる必要はないのだけど感じてしまうね。理不尽だ。いろんな意味で。
極めつけはいわしと炭鉱スープを食う描写かしら。美味くなさそうなものを不味そうに食う描写がすでに美味そうなんだから、美味そうなものを美味そうに食う描写はそりゃもうよだれ垂れ流します。この文才にこのやりきれないルポを書かせる世界が憎いね。ジャーナリスト出身だから本人は不本意ではないだろうけど。(2006-07-02)
イタリーの信長というふれこみになっている。この手のコピーはある意味言ったもん勝ちと言うか、イタリアでは日本に織田信長という武将がいたというのを語るときに極東のチェーザレだとか言ったりするかしら。あるいはインド人は家康のことを日本のアクバルだとか言うかな。なんだか妙な感じ。時代的には細川政元のほうがかぶる気もする。
解説で歴史でもなく伝記でもなく小説でもなく
と煽られているけど、まあ小説ですね。小説は懐深いですから、余裕で小説です。見事に書ききってる。多分書かせたらもっといくらでも書いてしまいそうだけどもそこを抑えて抑えて削って削って余韻たっぷりに仕上げてある感じ。エンディングはもう決まりすぎて嫌味なくらい。
この人はコロンブスと同時代の人だからトマトとか唐辛子とか辛うじて味わったか味わってないか微妙なタイミングですね。北イタリア周辺は例えトマトや唐辛子がなかったとしても充分に美味いもの作ってそうではありますが。食う描写はなかったな。残念。(2006-07-02)
最近はショッキングなバラバラ殺人事件が増えてきたようである。
といきなりな冒頭なのだけども、80−90年代はそんなにバラバラ殺人事件あったんだっけか。どうも世代と社会に結び付けて犯罪を語られるとひじょうにさめてしまうというかいい加減食傷気味ではある。こういう問題意識の持ち方はまあいかんわけじゃないけどあんまりにも紋切り型すぎるし。作者は1933年の生まれでこの人がいうところの「最近の若い世代」には1950年代生まれくらいから滑り込むようだ。
解離性人格障害を医原病だと言い切っているのも今となってはどうかとも思うけども、いまだ評価の定まらない新しい区分だし仕方なくはある。けどもなんの予備知識もなくこれをいきなり読んだら素直に飲み込んでしまうな。
一応まえがきでは落ち着き払って「若者」がエキセントリックなのは別に今に始まったことではないとことわってはいる。やっぱり「普遍的に若者がおかしい」と書くより「今の若者だけ際立っておかしい」とぶちあげたほうが共感をえられやすいのだろうか。80−90年代はリアルな数字はどうあれかくも物騒で凶悪事件が多発して昔はこんなことはなかったのにと嘆かれている時代ですと。よもや20世紀はこんな狂った時代じゃなかったとか知ったようなことは言うまいと。30年後の自分に釘をさしておきたい。(2006-06-28)
ぼくが生まれた年に上梓されてる。古い。現代史の部分はそれゆえ時代がかってるというか、書かれた当時がいまや現代史の一部だしどうしようもないな。この頃からさらに30年が流れたけども、もちろん当時の種から生まれた果実もあるし、未だ続く負の遺産もある。モンスーンの風土という副題が示すように気候的には比較的恵まれた地域であるので、例えば今国連に最貧国に指定されている国なんかも遠からず自立したサイクルを確立できるとは思うけど。外資による収奪のサイクルからどう抜け出すかも問題になってくるのかしら。ややこしい話です。
やはり西欧が進出して来る頃まで16世紀くらいまでの歴史が面白いですな。中原とインド亜大陸の双方の影響を受け、仏教とヒンドゥーとイスラームがせめぎあった地域(カトリックも後に入ってくるから宗教的にはえらく複層的な地域だ)。この辺の地名は個人的にすごくそそられる。特に漢字あてたやつ。室利仏逝とか摩羅游とかね。(2006-06-21)
10年も前の本になってしまった。書かれた時期が微妙で、あと5年、いやさ3年遅く書かれていたらまったく違った本になっていたかも。例示が多く、若干マスコミに対して糾弾的。批判的に見るという観点を提示するには仕方ないのかも。情報を正しく読み解くための知恵という副題がついているけども、正しく読み解こうとかそんなごたいそうなことは今や誰にもできないような気がする。メディアニヒリズムというか、せめて一つの情報を鵜呑みにせず複数の情報源を確保して価値判断は最後まで保留するという態度で臨むしかないような。消極的だけども。
各論的には統計リテラシーとかセールスリテラシーの話も欲しかった、というか「情報を正しく読み解くため」にはそれが一番実用的な気がする。メディア論から外れるけども根っこの精神は同じような気もするし。(2006-06-19)
日本が鎖国をしなかったらという「歴史のイフ」を扱った仮想歴史小説。文庫書き下ろし。この手はある意味ポリティカルフィクションの時代物ともいえるし歴史小説のパロディともいえる。まあパロディなんだけどそれにしたって、島原の不乱とか続好色一代男フランス編とか、清水義範のこのセンスのよさはどうだ。安政の大欲に至っては完全にタイトル勝ち。圧勝である。笑わしてもらいました。さすがの貫禄です。
井上ひさしあたりに同じテーマで書かせてみたい。ぜひ。あとはもういないけど藤沢周平にも書かせてみたい。(2006-06-06)
30年も前に書かれた本なんで文化史を語っている内容よりも、同時代を語っている箇所のほうががぜん興味深かったり。米の消費量が結局一人当たり50キログラムくらいに落ち着くだろうという観測は当時の農水省が出した数字だろうか。たしか去年60kgを切ったはずなので、かなりいいとこついた数字。まあここんところ横ばいに近いし、カロリーをようけ必要とする層は減っているわけだから、実質消費は上がってるのかも。
電気炊飯器を随分こき下ろしてるんだけど、当時はあんまり美味しく炊けなかったのだろうか。吸水もせずに炊いているような描写があるので使い方がまず拙いような気もする。それではちょっと電気釜が可哀想ではあるな。米が不味くなったとも書いてある。こういう話は米に限らず、野菜なんかも本来の味がなくなったとか嘆かれる向きは多い。野菜は多分旬を無視して栽培できるようになって結果平均点がさがったんだろうけど、米はどういう理屈だろう。今はたいてい玄米で保管してると思うけど昭和30年代以前はまだ籾付で保管していたとか? まあ農家の絶対数が多そうだし、一番美味い食べ方を知ってるのは生産者だろうし、そういう層が多かったというのもありそうだ。(2006-06-05)
1ヶ月のあいだカナダ=エスキモーとともに暮らしたレポート。40年も前の仕事で、本多勝一も30歳そこそこ。若い。セイウチの生臭さに辟易しながら喰い、その目玉を「生臭い寒天だ」と言って喰らい、カリブーに寄生していたハエのさなぎを喰らい内臓にはさすがに辟易して吐き出す。すべて生。ぼくは料理の生肉にそれほど抵抗ないし、昆虫食に格別拒否感があるわけでもないけど、生で丸ごとというのはさすがにきつそうだ。魚なんかでも刺身にする前に丸ごと齧ったら生臭くてたまらんと思う。
ものすごい勢いで「文明化」してるようなので、こういう暮らしをしてるエスキモーはもういないかもしれない。そのかわり教育の問題なんかは若干解消されている面もあるのだろう。
大事を前にわざと余裕を見せつけたりする感覚はなかなか面白い。例えば自殺をしようとしてしくじって血をだらだら流しながらお茶を飲んで、とか。悲惨なシチュエーションで申し訳ないのだけどここまでくると笑えてしまう。お茶がずいぶん普及してるみたい。ビタミンCの摂取が楽になったかもしれないけどタバコもずいぶん普及してるようだから結局壊されてしまうか。(2006-06-05)
中島らもが食った話をして、まずいと言っていた。ネタ交じりの文章だったから真偽は不明だけど。海産物に目がなく見た目はそれほどかけ離れていないカニとかエビを珍重する日本人がたいして食用として執着しなかったのは、あまり好みの味ではなかったからかもしれない。(一応食用にする地域があったことはあった)今でも東南アジアや中国に行けば食べられるそうだが、かの地でも個体数が減っているらしく、年々高級食材になっているとか。経験者の話では美味いという感想も聞くので料理人次第か。
いきなり脱線したけど別にこの本はカブトガニを美味しく食おうとかいう本ではなく、日本での生息地を守ろうという本。天然記念物に指定されてるのは伊達ではないらしくもっとシビアなレッドデータブックにものってたりする。別に採りすぎたわけじゃなく、生息環境が悪化したせい。干潟とか潮溜まり、砂浜というのは大事みたいね。
なんとなくだけど血液の利用価値と5億年の歴史と、どちらかが欠ければ容赦なく駆逐されていた気はする。歴史は抜群に古い「台所のスプリンター」は「むしろ絶滅してほしい」という人が多い気がするし(連中を絶滅させようというのは人類にとってもはなはだコストがでかそうだけど)、生物資源としての価値があと100年、へたすると50年早く見出されていたら20世紀半ばくらいで姿を消してたんじゃなかろうか。(2006-05-27)
なんだか読後にものすごくわかったような気になる。それは文章が読みやすいからで、実のところあんまり判っていなかったり。94年なんてついこないだのような気がしますね。科学の進歩で10年はあなどれない長さだから、新しい知見も増えまくっているのだろうな。
DNA辺縁のはなしはわりとデジタルな印象を与えるものが多い気がするのだけど、文体のせいか構成の妙かそういう雰囲気はない。DNAがデジタルに働いた結果人が生きているのか、人が生きるためにDNAが働いているのか。同じことを言っているようだけど印象が随分違う。言葉の面白さであり怖さだと思うのだけどそこからさらに一人歩きしたりして。やっかいだ。
生命を機械のように見るとか自然を機械のようにして見たりすると拒否感を持つ向きは多そうだ。でもよくよく考えて見ると順序が逆で、人が自然に習って機械を作り上げてきたにすぎない気はする。順序はけっこう大事だな。逆にして考えるのは過程の上では有効なメソッドだけど逆にしたまま飲み込んだのでは本質までが逆になりかねないし。人はねじれたものを偏愛しがちだからそうなるのも仕方ないかもしれないが。(2006-05-20)
米田仁士の手による表紙が美しくて大好きだ。たまに思い出したように画集とか欲しくなる画家。挿絵もないかしらと思ったけどなかった。残念。
大原まり子の言葉のセンスはかなり好きです。ラジェンドラ人とかリガルデ・モアとかオルゴオルとか。言葉のセンスというか固有名詞の語感のセンスか。この場合オルゴオルは違うけど。リガルデはフランス語っぽい。ラジェンドラはインドのほうの言葉かしら。例えば栗本薫の繰り出す固有名詞はあんまり好きじゃない。新井素子の固有名詞もいまいち。どういう理屈でかは知らないけどぼくはフィクションを読むときにそういう観点で見てることがある。栗本薫も新井素子も好きですけどね。
「有楽町のカフェーで」と「薄幸の町で」って通して読むとやたら切ない。人類が絶望寸前で、人びとは今日死ぬか明日死ぬかって感じで、それでも淡々と日々を送って、見栄を張って、すれ違って、間に合わなくって、後悔して。明日地球が滅びるならどうしますか?くらいリアルに時間を区切られないと、人は結局踏み切れないのかもしれない。いや、それでも結局は迷って、躊躇して、踏み切れずに1日が終わるのかな。ぼくなんか間違いなくぼやぼやして終わるね。どうだか。(2006-05-08)
健康食品があるからには不健康食品もある気がするんだけど。どんなものだって極端に摂取すれば害になるし、水だって飲みすぎれば死ぬし、酸素を吸いすぎれば覿面に意識がなくなるはず。だからといって水が毒だとか酸素が毒だとかは言わない(酸素は毒のような気もするけど)。健康に良い云々は医食同源とかQOLとかからはかけ離れてけっこう趣味の領域に入って久しい気がする。人様が趣味の世界で何を食べたって文句はないけど、あれを食えあれは食うなだの啓蒙してまわられるのは割とうっとおしいかなとは思ったり。長生きする人というのは健康に気を使っていようがいまいが長生きしてしまうものなので、そんなに気合を入れて健康になりましょうとかは個人的には遠慮したい。それでも頭痛だったり腹痛だったりすれば健康って素晴らしいと手のひらを返してしまいますが。
この本は新聞に連載されていたのを持ってきたらしく文章が砕けていて読みやすい。その分突っ込んだ話がされておらず物足りなくもある。というかこの程度しか突っ込まないのであればみんな難しいこと考えずになんでも食べればいいのにと思う。(2006-05-08)
このタイトルは抗菌剤が開発されて制圧したかと思われた細菌が耐性菌となって再び脅威になっているということを指しているのでしょう。病原菌と限定して言ったほうがいいような気がするけど。細菌なんてのは増え方が尋常じゃないもんだからやっぱり尋常じゃない早さで耐性も獲得するらしい。人間の行為で短期的に環境を壊されたり狩られたりして絶滅した生き物は多いけども細菌たちはこういう局所的な刺激にはめっぽう強いようで。まあ細菌をころすために体を汚染するわけにも行かないのでしょうがないのでしょうね。逆に自然環境を破壊するかのごとく細菌の環境を汚染しぶっ壊せば多分絶滅するでしょうな。人間ももろともだけど。(2006-04-20)
神様は天邪鬼というサブタイトルがなんというかあかぬけないのだけども、内容は面白かった。外科医の歴史から医療技術の発達をざっとさらって、手術が引き起こす侵襲反応の仕組みを解説。手術は体を治すために行うけどもそれが引き起こす侵襲反応は治療の邪魔にしかならない。麻酔されているとはいえ、リアルに切り刻まれている事実に体が逃げようと反応するためで、体の自然な反応が治療の妨げになる。神様は不都合な体をつくってくれたものよ、という趣旨のサブタイ。神様にしてみれば「そりゃ想定外」だと言いたくなるような話だとは思うけど。
know everything but do nothingが内科、know nothing but do everythingが外科というジョークは面白かった。本職が面白がっているのだから実際のアクションはともかくそういう気質のようなものはあるのだろう。(2006-04-08)
有名な本なのでこんなとこでへたに感想文書くとお里が知れると言うか、まあいまさらですが。難しい。どうしたものかと思う。やりきれなさと言うか無力感と言うか。どうしてこういう構造になってしまうのだろう。アジアは多分もっとしたたかで筆者が考えるほど悲劇的でもないような(30年前くらいの話だし)気もするけど、そうあって欲しいという願望も入っているな。
人件費や物価の安いよその国を利用することはかなり一般的に行われている。やらずぶったくりだったこともあっただろうし、今でもそういう企業はあるだろうな。でもフェアにやってるところも増えてきているはず。商売の本道は正直であること、というのはお人よしにすぎる気もするけど一定の真理も含んでるとは思うし、そうあって欲しい。貧困地域から搾取した結果今の生活が維持できている面があるのはその通りかもしれないが、搾取しなければ豊かになれないのかといえばそれは違うはず。違うよな。(2006-03-23)
暗示でアレルギー反応がでるらしい。有名な話らしいがしらなんだ。憎悪因子に心理的なものが関わることがあるのは知ってたけど。
バラの花粉を吸うと喘息を起こす人が、造花のバラを見たとたん、発作を起こしたという有名な話があります。
なら暗示であっさり治ってもよさそうなものだけどそううまくはいかないようで。
ぼくはハウスダストに一般人の10倍くらい過敏だそうな。(それでも去年より今年のほうが鈍感になってたけど)アトピーとか鼻炎とかはそれが原因の可能性は高い。でもハウスダストなんざ一向に気にかけることなくずっと生きてきたわけで、因果関係を説明されちゃった以上、ぼくも暗示で憎悪する体になってしまってるかも。「ほーらやまほどダニの死骸が」と言われたとたんに鼻水だらだらとかね、嫌すぎる。
アレルゲンに曝露され続けて発症するのと減感作療法で治るというのは割と紙一重の話のような気がする。体というのはほんとにややこしくできてますな。(2006-03-20)
ものすごいいこと尽くめ(にみえる)の提案がなされる。人工鉱山とか。でも結局胆の部分の技術がまだ確立されていない、のかしら。どうなんでしょ(「現在の冶金学では鉄の中に含まれる銅を取り除けない」というやつ)。
燃やすなら燃やすできちんと熱エネルギーを利用できれば立派なリサイクルなんだけど、火力発電所がゴミ焼却所のボイラーと直結させてハッピーみたいな単純明快な構造になっているようにはどうも思えない。どうなんでしょ。ペットボトルに限れば熱効率はいいらしいようなことが書いてあったけども。このへんの仕組みも変える必要がありそうだし先は長そうだ。
多分ある種のエコロジー・ファディズムを揶揄するというか「そうなりなさんなよ」という話として読むべき面もあるのでしょうね。どうなんでしょ。手段の目的化の害とかコスト意識とか熱力学の法則とかリサイクルの文脈に限らない大事な視点はけっこう多く示されてる。(2006-03-05)
タイトルは中国だけど韓国とか東南アジアも若干入ってる。なんといっても本場でホンオ・フェを食らったレポートが素晴らしい。口の中でアンモニアが唾液に反応して水酸化アンモニアになるので溶解熱で熱くなるとか。アンモニア臭だけなら、たいていの臭い食べ物はアンモニア臭をだしてるそうなのでそう珍しくもないけども、口の中で化学反応を起こすほどピュアなアンモニアが味わえるのはホンオ・フェくらいのものだろう。というかアンモニアは決して単体で味わうものじゃないと思う。
ただマッカリとの組み合わせは絶妙らしい。乳酸でアルカリを中和できるのでということなんだけど、ということはキムチと一緒に食べてもいける? ちゅうか、なら最初からキムチと一緒に漬ければどうか、とかも思うわけだけども、それだとなんとなく普通においしそうだし珍しくもなさそうではあるな。
熟成させまくった熟鮓をうまいこと成型して「チーズだ」と言ってドイツ人に食わせた話も面白かった。種明かしはしたんだろうか。(2006-03-05)
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