100円本棚/1

Mなやつ 管理人 JR
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キャバレー

栗本薫(1983)角川文庫

なにやら版元が変わって(社長は変わってないけど)耽美系な表紙になっていてかなりびっくりした。むういつの間に。別に耽美系でもいいけど絵が軽いよ。野村宏伸がでていた映画は見たことないけど、小説は好きでしたね。中学の頃読んだ。昔すぎだな。何年前だか数えたくもない。ジャズと呼ばれる分野の音楽を聴くきっかけになった本。レフトアローンも買いましたね。マルのライブも聴きに行ったりした。

栗本薫という人は職業作家というか、巧いのですな。おこがましい言い方を許してもらえれば。評論化活動もしてるけどほんとにそこらの物書きを十把一絡げでペペペノペーッとできるほどに巧い。グインは散漫じゃねーかという人もいるようですがぼくはそもそも読んでないのでそこは保留。

この本はまあ音楽小説というかジャズ小説というか、音楽の描写が素晴らしいのはもちろんのこと(クライマックスのセッションの様子は鳥肌物。音聞こえてきます。まじで)下町の描写やヤクザの描写がいい。この単行本1冊分の短い容量の中で名前の出てくる登場人物のほぼ全てがキャラが立ってる。これはすごいことです。(2005-10-20)

ペンギンの世界

上田一生(2001)岩波新書

ペンギンの話。昔は思う存分資源として利用されていたというのは知らなかった。海洋生物の利用に貪欲な日本人ならば、機会があれば間違いなく利用してきただろう。アシカも獲り尽くした過去があるし。

1867年、イギリスのある会社は40万5600羽のペンギンから23万500リットルの油をとったと報告している。ロイヤルペンギンの場合1羽あたり0.5リットルの油がとれ油1トンあたり18ポンドで取引された。「のろまな歩く食料」から「愛すべき生きもの」へ〜上田一生(2001)『ペンギンの世界』岩波新書

ものすごくおおざっぱに言って1ポンド1〜2万くらいのものだと思う。とすると油だけで1匹あたり90円から180円くらい。肉はどうやって消費したかわからないけど、油絞っちゃったら肥料にしかならなさそうな、どうやろ。あの高そうな体脂肪率で1匹0.5リットルというのは圧搾が足りないんじゃないか、税金逃れで会社が帳簿ごまかしてんじゃないかとか邪推してしまいますが。

北半球ではオオウミガラスが乱獲で絶滅してるんだから、南のペンギンがこのとき根絶やしにされなかったのは運が良かったとしかいいようがない。しかもあの外観がなければ多分根絶やしにされていたという事実。見た目はほんと重要です。(2005-08-22)

傭兵部隊

落合信彦(1982)集英社

落合信彦という名前は知っていたけど、読むのはこれが初めて。パイナップルアーミーとかゴルゴ13の種本みたいな内容。負傷して動けなくなった仲間にとどめを差す話もパイナップルアーミーにありましたね。陽気なイギリス人。顔は出てくるけど名前が思い出せない。ことあるごとにベトナム戦争に言及される。共産主義への反感もすさまじい。ソ連はバリバリ健在だし、ベトナム戦争が終わってまだ10年もたっていない頃なので当然かもしれない。

取材に同行してる編集部の人が軽薄な若者の代表みたいな書かれ方をしてるけど、1982年に20代なら1950年代の生まれ。今はもう50くらいかもしれない。いつの時代も若いほうから馬鹿にされるということかしら。

訓練のレポートはそこそこで、大部分インタビュー。虚実入り乱れてるとは思うし、こればっかりはわからない。盗聴されるのに比較的慣れてるとか書いてたが、やなもんに慣れる人だ。というか比較的の話なら、普通の人はそういう体験は限りなく0だろうから1回でも経験してれば比較的慣れそうではあるけど。(2005-08-19)

ローマ人への20の質問

塩野七生(2000)文春新書

ローマ人の物語は読んでない。あのボリュームをみただけでげっぷがでそう。小説を読む力がとみに衰えているというか、問題だとは思う。練習に昔読んだ本でも引き揚げてこなくちゃいかんかしらん。

歴史小説を書く人というのはなぜか一般に(史料に通じていないと書けない部分があるからだとは思うが)歴史学者さながらの扱いをうけたりする面もある。司馬史観とか、彼の技巧とプロットを評するのに「史観」なんて言葉を持ってきたのがいけなかったのかも。だから多分(妄想ですけど)塩野七生に誰か余計なことを言ったんじゃなかろうか。史実と違うとか、最新の学説はこうなってるとか、独断的すぎるとか何とか。それで全編通してなんとなく歴史学者にたいする敵愾心にあふれてしまったのかもと思う。

例えば「学者が<イフ>を厳禁するのは良いが一般の愛好家までがそういう態度で望むことはない」と始めて、いつの間にか「歴史学は歴史叙述を歴史小説に頼っている」という話になったり。別にそんなご大層な話じゃなくて小説が小説として面白ければそれで重畳なのに。ハードSFしかSFと認めない層みたいなのが歴史小説愛好者の辺縁にもいるのだろうなきっと。

最後の「覇気の喪失が帝国滅亡に繋がった」という見方は藤子F不二夫の不朽の名作短編「老年期の終わり」を彷彿とさせますね。美しく切なく散らすにはこのうえないでしょう。こういう美意識こそが小説家には大事なんで、ゲルマン人がどうとかキリスト教がどうとか美しい滅びを描くためのガジェットにすぎません。多分読まないけどこの人なら美しく描き切るでしょう。チェーザレボルジアのあまりにも美しいラストのごとく。小説ってのはそれでなくてはむしろいかんと思います。(2005-08-16)

アトピービジネス

竹原和彦(2000)文春新書

アトピー性皮膚炎がいかに「難病化」し、ステロイド外用薬がまるで毒物さながらに貶められ、玉石石石石石屑混交の代替医療が台頭したか。アトピービジネス批判とマスコミ批判。アトピービジネスということはこの人が言いだしたそうだ。話のたねに金沢に住んでるときに一回くらい診てもらえばよかった。

正直に言うと自分もステロイドには抵抗がある。理屈ではわかっているけども、食わず嫌いみたいなものか。小学生くらいの頃は逆にリンデロンをびしばし塗りたくっていたような気もする。あれがばりばり効いた記憶があったから余計に警戒してるのかも。

内服薬の場合はおそらくきちんと飲ませていると思うのです。ところが、塗り薬に関してはイージーな考えかたを持っているとしか思えない。化粧品を塗るのと同程度にお考えじゃなかと思います。おそらく一日、二日は、きちんと塗るかもしれない。そしてよく効く薬だから、目に見えてよくなってくる。そうすると、もういわれたとりに塗らない。

飲み薬だったらおそらくこんなルーズなことはないでしょう。週刊朝日1983.9.30号山本一哉医師のインタビュー

これはわかる。イージーな考え方もあるし、いまいち塗り方が分からない面もある。飲み薬の場合はだいたいが一日何回何時に何錠と処方箋が書かれるのできちんと飲む飲まないというよりも間違えようがないのだ。それに対して塗り薬の場合どれくらいの量を塗ればいいのかがまずおおざっぱだ。性格にもよるだろうけど「薄く塗ってください」の薄くの幅がけっこう広そうな気がする。

最後のほうにある患者の手紙とかぼくはそこまで重症化したことはないのだけどものすごく身につまされる。20歳前に若干悪化したとき、自分がそっち側に転ばなかったのはけっこう運がよかっただけだ。情報を斟酌する能力をつけるしかないのだけど、医者自身もアトピービジネスに関わり、マスコミもいまいちうさんくさいという状況だとなかなか骨の折れる話ではある。(2005-08-14)

サガとエッダの世界

山室静(1982)社会思想社教養文庫

アイスランドの歴史と文化という副題の通り。地図で見るとえらい孤島だなという印象があるが、地球儀で見るとそうでもない。いや、孤島は孤島だがヨーロッパよりグリーンランドの方が近そうだし、そうするとイヌイットが渡ってこなかったというのも不思議。ヨーロッパ人が渡るまでは無人だったらしい。

著者は冒頭で面白い国だと言っているが、たしかに面白い。ふと極西の日本のようなものかなと思った。たしかに温泉好きで魚好きな点は気が合いそうだが、極東に比べると環境が過酷すぎるか。結構ファンタジーな島で、個人的に死ぬまえに一回行っときたいところのベストスリー入りしている。(2005-08-03)

あいまいな日本の私

大江健三郎(1995)岩波新書

この人がノーベル賞とったのもう10年以上前なんですねえ。おおいばりで、受賞するまでは読んだことなかったし、ちゅうかいまでも読んだことない。初めて読んだのが講演集という作家も珍しいと書こうと思ったのだが、初めて読んだ村上龍は対談だった。だからなんだと言われても困るけども筒井康隆は漫画だった。まあ入り口はどこにでもある。

なにやら親ばか講演のような気もしないでもないというか、多分本人もわかっちゃいるけども親ばかなんだろうと思う。大江光は夢を見ないらしい。ほんとかしらと思うが、本人に夢という概念がないらしいのだ。泣くこともないようだ。嘘だろうと思うけども家族が言ってるんだからしょうがない。夢という概念のない人が書いた「夢」という標題音楽にすごくそそられる。「大江光ふたたび」というアルバムに収録されているようだ。機会があればぜひ聴いてみたい。(2005-08-01)

バカの壁

養老孟司(2003)新潮選書

自分は壁を築いていないか。ある程度は築かないとストレスフルな面もあるけども無闇に高い壁を築いていないか。多分僕は結構な高さの壁を築いていると思う。この本はバカになるなよという話をしているはずなのだが、いつの間にか「バカはしょうがないよね」と、他者とのコミュニケーションの崩壊の責任を一方的に相手に押し付けてしまっている自分に唖然としたりする。

まあ本人はわかってて書いてるんだろうと思うけども、 インドのカーストをワークシェアリングと言い切っていたり、若干経験至上主義に傾いている当たり著者の影響力の強さから問題あるような気もする(こういう発想がいくぶん権威主義的であんまり好きじゃないけど)。

この本はずいぶん売れたらしい(わたしは恥ずかしながら人から貰った)。書いてある内容もさることながら文章がほぼ完全に口語で分かりやすいというのは大きいと思う。この文体は、わたしの勝手な当て推量だが、これからの主流になりえると思う。ですます調。体言止め。で明確に聞き手を意識してるの。堅い文はこの調子に直しただけで分かりやすさ3割増になるんじゃなかろうか。合わせて構成も考えなきゃならんかも知れんが。(2005-07-25)

フィルハーモニーの風景

岩城宏之(1990)岩波新書

ずいぶん昔の中島みゆきとの対談で自分で直木賞が欲しいとか言ってた。それを読んだときは指揮者がなんでそんなもの欲しがるのか分からなかったが、これだけの文章が書ける人だったら欲しくなるかも知れない。

ウィーンフィルのデタラメなまでの自負とか、楽器運送業のルポとか実に面白い。指揮者と奏者が運命的に敵であるという指摘は素晴らしかった。それでもオーケストラは指揮者と奏者と聴衆が揃って完成するものだし、三者の究極目標は一致している。そこへ至ろうとする方法がいろいろあって、それを巡ってのせめぎあいがオーケストラの面白さなのだろう。

足を引っ張られてるようで実は加速していたりとか、部分的に違うかなと思っていたものが出来上がってみたらとんでもなく成長していたりとか。当事者の思惑通りにはいきにくい部分が、最も音楽的な部分なのかも知れない。(2005-07-24)

情報操作のトリック

川上和久(1994)講談社現代新書

トリックというか、トリックとわかっていても騙されてしまうというか、騙されていたほうがむしろ楽というか、いかんと思う、実際。1994年なんて10年ちょっと前で一昔というのも悔しいくらい最近な気がするけども、当時と今と何が違うかというと当時はWebがこれほどかしましくなかった。というか正直わたしは後から仕入れた知識しかないのだが、まだパソコン通信とかBBSとかニュースグループとか元気だった頃だと思う。だから当然Webを経由した情報の変質とか偏向とか触れられていない。

携帯電話もそうだ。当時はまだポケベルが本流だったはず。10年前にすでに情報化社会ということが言われていた。それならば現在は超情報化社会でしかもそれは加速している。豊川信用金庫の噂による取り付け騒ぎが本書で触れられているが、現在だったらどうなるだろうか。噂はおそらく当時よりも素早く、また広範囲で広まるだろうが、同じように取り付け騒ぎまで至るだろうか。

ノイズが増えた分現代人は以前より情報の取捨選択は巧くなっているはずで、それほど騒ぎになりえないかも知れない。楽観的すぎるか。当時も似たような噂はどこにでもあったはずで、幾つもの条件が重なってあれだけの騒ぎになったことを考えれば、問題の本質は変わっておらず結局同じような条件で同じような騒ぎになりうるものなのかも知れない。してみると広範囲に高速で広まりうる分今の方が厄介かも。

著者が結語が味わい深い。オーウェルを引き合いに一人ひとりの情報に対する姿勢が、情報統制・管理社会への流れを阻止すると。もはや情報操作は個人のレベルで可能な時代だし。いちいち疑ってかかる必要もないし、テレビのやらせ程度で(番組にもよるが)騒ぐ必要もないが。ただ、鵜呑みにしないだけの心構えとバランス感覚が大事なのだろう。(2005ー07-10)

現代ウイルス事情

畑中正一(1992)岩波新書

ウイルスが生物なのかそうでないのか微妙な立場だと習ったのはいつだったか、ひょっとすると学校で習ったわけでなくなにかで読んだだけだったかもしれないけども、ひどく不思議な感じがしたのは覚えている。生物でなければいったいなんなのだと。

なんなのだろう? そんなものは生物の定義次第なのだが、定義次第で生物の分類から漏れる連中なんざウイルスと、あとは鉄腕アトムとか一反木綿とかケイ素系宇宙人とか、それくらいしかいないのでやはりボーダー上の存在なのだろう。

DNAのレベルで考えると生物はずいぶんデジタルにできているものだと驚いた。遺伝子組み換えとか自分が研究者だったらやりたくてしょうがない気がする。

HIVの流行が倫理的な問題を社会に突きつけているという指摘があったのは興味深い。自分は以前HIVキャリアを隔離せよという主張をWebで見たことがある。 自分が感染したとしたら、おそらく将来に訪れるであろうHIVによる死よりも、キャリアであることを知られたときの周囲の反応の方が恐ろしい。医学がウイルスを克服するにはまだ時間がかかりそうだが、世情の偏狭を克服するほうがもっと難しいかも知れない。(2005-05-30)

食の世界地図

21世紀研究会(2004)文春新書

世界各地の料理や食材に関する歴史や背景を思いつくまま総当たり式に書き連ねてある。一応の章立てとテーマはあるし、読みやすく分かりやすいのだが、後から参照するときに分かりにくいのが難点か。あと、解説されている各国料理が美味しそうで、食べたくなるし作りたくなる。

第1章は「世界を変えた新大陸の食材」トマトやじゃがいもについてはある程度知っていたが唐辛子やインゲン豆もそうだとは知らなかった。インゲン豆はヨーロッパ原産で唐辛子は中国のもんだと勝手に思っていた。ついでにカボチャはカンボジア原産だと思いこんでいて得々と人に語ったこともあったりする。ああ、恥ずかしい。

巻末の世界の料理小辞典も読んでるだけでよだれが出そう。人間ほどいろんな食材をいろんな方法で食べる生き物はいない。先人達の試行錯誤と食への執念に感謝しなくては。(2005-03-25)

傭兵の二千年史

菊池良生(2002)講談社現代新書

傭兵が退場したとき、国民が生まれた!という帯書きが素晴らしい。

ナショナリズムという奴はものすごく難しい。幻想でかたつければ話が早そうだが、納得しない人は多そうだし、そもそも理詰めではなく感情のような気もするし。自分の属するグループと別のグループを意識したときに感じる帰属意識が大本にあるのだろうが、そんなささやかな感情がなぜに殺し合いのエネルギーに向いてしまうのか。

たとえば日本でもほんの200年前は何十カ国に分かれていて、ナショナリズムのような感情はその国々に属していたはず。いまでも県人会とか同郷で固まろうというむきはあるし、それは別の県の人間に対する自己主張でもあろうし、同郷同士の連帯感の確認でもあろう。これがもうちょっと範囲を広げると関西VS関東とか北海道VS本州以南とかになる。だから今地球規模の人類としての連帯感はそれほど具体的ではないけども、もし地球の外の知的生命体と接触をもてたら地球人としてのナショナリズムが生まれるだろうか。

うん、話がそれてる。つまり傭兵頼みの軍事をやめて国民軍を組織したときに、国民という概念が国民に浸透したということかしら。ややこしいな。永世中立なんていってるスイスが戦争しないけども兵隊は貸しますよっていうすごい商売をしてたのは知らなかった。(2005-02-20)

イスラームの日常世界

片倉もとこ(1991)岩波新書

日本はなぜ一神教にまつろわぬのだろうか。キリスト教など400年以上前に伝えられている。仏教だって外来宗教だし、同時に海外の文物をもたらした点では同じのはず。徳川政権が禁教しなければキリスト教圏に入った可能性はどれくらいあっただろうか。

イスラームというと政治的なこととは切り離して語れなくなっている昨今だが、著者の目はあくまで一般人のムスリムに向けられている。タイトルからして当然の姿勢だが。特に明記してないことも多いが、イラン・エジプト・サウジアラビアの話が多い。

ここ昨今中東で過激派がかしましいせいでイスラームのイメージが、ある方向性で固まってしまいそうになる。それを解きほぐしてくれるような本だ。なんというか愛があふれている。自分とはまるで違う価値観の人間がいて、でもそれは相いれない価値観じゃなくて。おそらく実は同じ価値観だと思っている人でも実は微妙に違っていて、その違いの連続が多様な社会を作っているのだろう。

大切なのは理解することよりも否定しないことだと感じた。肯定する必要はなくて。甘いだろうか。イスラームに限らず一神教的世界観を持つ人々と、多神教的というかなんでもありというか渾沌とした日本人の世界観(まあ体系化されていないだけで実はけっこう確固としたものがあるような気がするのだが)はかなりギャップがある。それを埋めるのではなくギャップはギャップとして受容する寛容さというか。寛容とか言うとなにやら偉そうであまり好きではないが。やはり否定しないことだろうな。

最早地球は広いとは言えない。多様性を尊重したまま共存していくのには、いくらかヘビーなシーンもあるかもしれないが。それでも多様性こそが人間の文化の源であろうし、せめて存在を認め否定しないところから話し合いなり始められないかしら。理想論としてでも。(2005-02-09)

ド・ラ・カルト

小学館ドラえもんルーム(1998)小学館文庫

副題がドラえもん通の本。小学館はこの手の本に関して圧倒的なアドバンテージがあるわけで、もっともっとコアなものをファンとしては望んでしまうが。第三章こだわりファンクラブはキャラクターへの愛が感じられて素晴らしい。

やはりマニアックに読み込んだカルト本だと(著者にそのつもりがなくとも)どうしても作品へのリスペクトから乖離してあら探し的なものになりがちだし、このあたりのバランスがちょうどといのかも知れない。

マニアックでかつ愛に溢れるものとしてWebには変どらページという素晴らしいコンテンツがあるのだが、あれを出版ベースにのせることのハードルを考えると仕方ないのだろう。個人的にはあれをぜひ小学館公認で出版してもらいたいのだが、よく考えたらそんなことより未収録作品を何とかせいというか。(2005-02-03)

Eudora-Jクイックガイド

中田了(1996)翔泳社

必要性はともかくとしてノータイムで購入してしまった。作者自らのマニュアルである。150ページもあるのだが、フィーリングでやってる操作を字で説明しようとするとどうしてもそれくらいにはなってしまうらしい。そうでなくてもインターネットというところはややこしいといころが多い。

実際読んでみるとけっこう知らない機能がまだあったり。基本的には実装してない機能を強引に使う方向で解説してある気がする。マルチアカウントで使うとか。署名をテンプレート代わりに使うとか、メールアドレスの挿入機能を定型文のコピペに使うとか。けっこう涙ぐましかったり。作者自らResEditで改造しましょうとか呼び掛けているのはさすがと言おうか。

マナーの項目やFAQなどを見ると当時インターネットがどういう使われ方をしていたのか垣間見えて面白い。今と変わらない部分も多いし、今のほうが若干殺伐としているかも知れないが。(2005-01-23)

絶対音感

最相葉月(1998)小学館文庫

出た当時話題になってましたな。ノンフィクションで30数万部売り上げたとか。本文そのままの構成でドキュメンタリー番組が録れそう。いろんな音楽家のコメントや証言、エピソードがあって面白かったんですが、そっちにばかり目が行って、結局絶対音感が何なのか理解できませんでした。わはは。

指揮者の佐渡裕が時計にたとえて「バーンスタインみたいなタイプはいわばロレックスで、微妙に狂うのです」と。この一節が好きですな。絶対音感とはあまり関係なく、指揮者のカリスマ性みたいなのを語った箇所ですけども。さらに畳みかけるように「カール・ベルムなどは、台所で今にも止まりそうな振り子時計です。でも、その家の主人が、“うちの時計は毎日十分遅れるんだ”と嬉しそうにいいながら、十二時の時報とともに十分進めている。」喩えうますぎ。(2004-01-09)

ゴッド・ブレイズ物語

花村萬月(1989)集英社文庫

芥川賞とった人らしい。失礼ながら押し出しの強い面立ちで、読んだこともないくせに顔知ってました。音楽小説とハードボイルドの合致だそうです。その解説を読んでわたしゃ栗本薫の「キャバレー」みたいなもんかと勝手に納得し、それならば趣味に合うだろうと「後書き買い」しました。背表紙に書かれた煽り文句、というかあらすじを眺めたかぎりじゃいまいち食指は動かんかった。曰く「切ない恋心に胸を焦がしたことのある人なら、自分の不誠実な生き方に後ろめたい想いを抱いて生きている人なら、読んで涙せずにはいられない」と。煽り過ぎでしょう。

「泣きゃあしねえよ。へへへのへーだ」と読んだんですけどね。まあ泣きませんでした。まだ経験値が足りないのかもしれず。ちゅうか最初から最後まであくまできっぱり爽快なんですが、泣ける部分をあとから探したくらい。爽快です。爽快小説。導入からいきなりの濡れ場でばっちり掴んで、あとは基本的にちゃんばら時代劇の構成でラストのウルトラスーパーカタルシスまで一気に読ませます。泣かせるエピソードとかギミックとかあるんですけども全てはこのエンディングを華やかに添えるための伏線ですな。最後に心置きなく叩っ切るために前中盤に鬱屈するというか。確かに感涙物の心地よさでした。この中編一本で完結してるからこその爽快感だとは分かってるんですが、もっと続きが読みたくなるのはキャラクターの造形が素晴らしいからでしょうな。余韻にひたりすぎて、もう1本短編が収録されてましたが未だに読んでません。あとライブに行きたくなりました。(2003-11-22)

周公丹

酒見賢一(2003)文春文庫

いきなり恥さらしだが、わたしは今これを書く瞬間までこの作家の名前を「さかみけんいち」だと思っていた。「さけみけんいち」らしい。ああ恥ずかしい。

この手の小説はこの人のお家芸である。中国歴史物というとなにやら語弊がありそうな中国風歴史風伝奇物。後宮小説とは違って現実の王朝の現実の歴史(だとされているもの)に沿って話が進むので、かえって煙に巻かれることの甚だしさは後宮小説の比ではない。

近年漫画などでメジャーになった封神演義と同じく殷周革命を題材にとる。封神演義はなんというか西遊記の国取り物語みたいなやりたい放題な話だが、こちらは歴史叙述風の文体に紛れて実はやりたい放題。あの文体はおそらくニカワなのだろう。あからさまに魔法めいたことをやってのけているにもかかわらずまるで本当にそうであったかのような錯覚を覚えさせる。現実と虚構を強引にかつ見事に貼り付けてしまう接着剤。

そういえば墨攻は漫画になっている。これも漫画にならんだろうか。ならんだろうな。封神演義があるし。後宮小説はたしかアニメになってたような。どうだったか。あの有名な冒頭はちゃんとシナリオに組み込まれたんだろうか。(2003-10-10)

創世記機械

J.P.ホーガン、山高昭 訳(1981)創元推理文庫

まだ社会主義が力強かったころの作品なんで、東西の対決というのが重要なモチーフの一つになってる。J.P.ホーガンといえばガニメデの巨人三部作が著名だけども、あれに比べるといささか趣が安っぽいかも。ハードSFのフレーバーを取り除くとあまりにも分かりやすい物語で先が読め読めなんですが、まあ予定調和のカタルシスというのももちろんあるのでとやかくはいいません。というよりは「ハードSFのフレーバー」というのがこのジャンルの命で、センスオブワンダーの要。推理小説のトリックのようなもんであります。これがしっかりしてないとすべてがぐだぐだになるわけで、その点では『創世記機械』は実に堅牢に構築されてます。

「……できないわけがない。だれかができないと証明するまでは何だって可能だ……」『創世記機械』J.P.ホーガン

こんな悪魔的に野心的で魅惑的かつ大胆不敵なセリフはめったにおめにかかれません。科学の進歩が議論の余地なく人類の幸せにつながるという楽天的な気質がなんとも痛快であります。(2002-11-07)

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